4/7     説教要旨  「隠れキリシタンの活動」 ヨハネ19:38-42

 序:日本は少子高齢化で「多死時代の到来」である。人生の幕が下りた時、本人の家族や親族がどう対応するか?が大切である。人生の最後の仕事が葬儀であり、本人が関知出来ない所にジレンマがある。キリストは十字架刑で処刑されたが、その遺体を葬ったのは「隠れキリシタン達」であった。

 荒筋:本来、キリストの死後に真っ先に駆けつけ、丁重に遺体を葬る役割を果たすのは、12弟子の仕事であろう。しかし彼等は主の裁判・処刑時に離散し、自己保身の為に逃亡し、責任を放棄した。臆病風に吹かれていた。彼等に代わって登場したのがアリマタヤのヨセフとニコデモである。このヨセフは、ピラト総督に直談判してキリストの遺骸を十字架からとりおろし、丁重に遺体を取り扱い、自分の所有する新しい墓に葬ったのである。

ニコデモは、没薬とアロエを混ぜた防腐剤を30㎏持参して、ヨセフと共にキリストの死後処理を行った。又、女弟子達も十字架刑の時から主の傍に立ち会い、彼等と共に葬儀と埋葬を真心こめて手伝った。

 教訓①:勇気を持って信仰の表明を公にした男の弟子達。ヨセフもニコデモも社会的地位があり、彼等はユダヤ・サンヒドリン議会の国会議員である。ヨセフは資産家で自前の墓を所有する金持ち。ニコデモは律法の教師・ラビであり、以前夜中にイエスを訪問し、熱心な求道者だった。それが今、二人共にキリストへの信仰を表明し、キリスト教徒となり、神の国を待ち望む者となっていた。「以前はユダヤ人を恐れてキリストの弟子を隠していた」(ヨハネ19:38)いわゆる隠れキリシタンだった。

しかし、12弟子が離散している中、勇気を出して自らの信仰表明し、大胆にも主の遺体の引き渡しをピラト総督に願い出た。社会的非難を受けるかもしれないのだ。仮に12弟子達が、主の葬儀と埋葬に責任をもっていたなら、ヨセフとニコデモは公に信仰表明をしなかったかもしれない。彼等の信仰表明、信仰成長の「時」が来た。「後の者が先になり、先の者が後になる」(マタイ20:16)。

 教訓②:丁重にかつ敏速に主の遺体を葬った男の弟子達。主は金曜日の午後三時ごろに息を引き取り絶命した。その日の日没に次の日(安息日)が始まる。律法では「木につるされた者は、その死体を次の日まで木に残してはならず、その日の内に埋葬しなければならない。主の相続地を汚してはいけない」(申命記21:22-23)と命じる。故に当日の日没までに主の遺体を葬り、かつ墓地に埋葬しなければならない。たぶん午後三時から日没まの午後六時頃まで、限られた短時間しか残されていない。ヨセフとニコデモは、時間を気にしながら、遺体に防腐剤の没薬を塗り、新品の亜麻布を身体に巻き、その体を新しい墓に葬ったのである。時間がない中で敏速に、かつ丁重に託された責務を見事にやり遂げたのである。

 教訓③:男弟子達は主を裏切ったが、最後まで主に忠実な女弟子達。弟子のペテロとユダは主を裏切ったが、女弟子達は誰一人最後まで主を裏切る者はいない。彼女達のひたむきで忠実な信仰は全く揺らぐことはなかった。決して表に出る事はなかったが、陰で支え、見守り、しっかりと奉仕する姿は初代教会の手本になった。

 

 

           説教要旨  「金銭的誘惑の果てに」 マタイ27:3-10

 

 序:私は、若い頃によく道端で財布を拾った思い出がある。それを交番に届けるのだが、時折、サタンの誘惑の声が聞こえてくる。人は金銭的誘惑に弱いもので、私が惑わされ、試されているのだろうと自覚する。

 

 荒筋:主の12弟子の内、ペテロとユダがキリストを裏切った。だがペテロは弟子に復帰し、ユダは自殺した。その二人の相違点は何か? 本日はユダの姿から教訓を学ぶ。

 当初、ユダは弟子達の信頼を得て会計を委託された程の人格者であったろう。取税人マタイという金銭を取り扱う経済的のプロがいながら、ユダに財布が委ねられた。それだけ優秀な人物であったろう。しかし彼は委託された金銭を私的流用し、着服し、業務上横領罪を犯した。その穴埋めをする為に、キリストを銀貨30枚で権力者達に売り渡した。

 キリストが裁判で死刑判決を受けようとした時、彼は後悔した。彼等から受け取った銀貨30枚を返却し、「罪のない人を売り渡した」と正直に官権側に告白した。だが官権側は「我々の知った事か、自分で始末しろ」と拒否したので、彼は銀貨全額を神殿の献金箱に投げ入れた。そして首をくくって自殺を図った。

権力者は、その銀貨を不浄な金として正規に受容せず、その金銭で畑を購入し、旅人達の墓地として「無縁仏」とした。

 

 教訓①:ユダは自分の悪を後悔し、罪を正直に自白し、かつ金銭を返却する行動を起こす。そこにユダの素直さと誠実さを見る。一方のペテロは、三度キリストを裏切った後で号泣しただけであり、主に罪を告白せず、主に詫びてもいない。そこに二人の人格的格差を見る。しかし二人の行動の結果を見ると、明白に違いがある。ペテロは弟子に復帰し、初代教会内で大いに用いられたが、ユダは自殺を図り、天の御国には凱旋できなかった。そこに二人の差を見、二人を分けたものは何か?

 

 教訓②:ユダは後悔し、ペテロは悔い改めと導かれた。後悔と悔い改めには大差がある。後悔とは、自分の悪を正直に認め、反省し、それを憂慮する心の動きである。それはあくまでも自分の魂の内側だけの秘めた反省である。悔い改めは、自己の罪を認め、神の前に罪を持参し、告白し、かつその罪から離反し、180度生活態度を変える魂の行動である。両者は、自分の内側だけの行為か、神の前での行為かの違いがある。

ユダは後悔したが悔い改めには至らず。ペテロは明確に悔い改めをなしたという言葉は見当たらないが、文脈や前後関係からそれは立証されよう。

 教訓③:一度罪を犯すと取り返しは不可能である。人が悪行を実行すると、そこから後戻りは出来ない。その罪は決して消去できないし、過ちの事実は確実に残存する。ユダは罪を後悔し、咎を正直に自白し、かつ金銭を返却した。しかし権力者からは「我々の関与する所でない、自分で始末をつけよ」と突き放された。自己の悪を詫びても、一度悪を犯すなら、それを消去する事は不可である。ユダは罪を自覚した時、真っ先にキリストに会い、自分の罪を告白し、主に詫びる事が最も大切だった。それを怠り、首をくくった。自殺の前に行うべき悔い改めがあったはず。そうすればユダの人生は大逆転したろう。

説教要旨

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